私、決めました

1年ぶりに奈保子さんから予約のメールを受け取りました。
以前は、不安や心配事でいっぱいだった奈保子さんです。
今回は、どんな心配事を抱えることになったのだろうかと思いながら返信しました。

予約日当日、奈保子さんは、髪を切って、さっぱりとしたショートカットで現れました。
真っ黒な瞳が、しっかりと私の目をとらえています。
以前にはみられなかった自信や意志を感じます。

「3月末で退職しようと思っています。
これはもう決めたことなので…」

「…!」

私は驚いてしまいました。
退職することに驚いたというよりも、
すでに自分自身で決意していて、
意志は固く、
退職について相談したいのではない
ということに、です。

開口一番、以前とは全く異なる奈保子さんを感じました。

「会社を辞めて、今通っている学校でもっとたくさん授業を受けようと思っているんです。
私、絵がうまくなりたいんです」

それは、2年前のことでした。
診察中に「何をするのが好きなの?」と尋ねると、
「絵を描くのが好きです。
絵の学校に行きたくて、お金を貯めている」
と言われます。

「お金を貯めて学校に行く、というのはとても立派な姿勢ですよね。
でも、気持ちが向いているときに始めるのが一番いいんだよ」
と話しました。

何でも、気持ちが乗っているときに始める方がいいのです。
ようやくお金がたまったときには、気持ちが変わっているかもしれません。
絵の学校の状況も変わっているかもしれないし、
奈保子さんの身辺も変わり、学校に行ける状態ではないかもしれません。
この先、何が起こるかわからないのです。
「学校に行って学びたい!」
そう思ったときに始めるのが一番です。

また、大好きな絵を描くことは、よい気分転換となり、
不安におしつぶれそうな奈保子さんの心境に変化をもたらすことでしょう。
治療のためにも、気持ちが盛り上がっているときに始めることを勧めました。

その後すぐに、両親からお金を借りて絵の学校に入り、
会社勤務しながら、毎週末、学校に通うようになったのです。

「将来、絵でお金を稼ぐのは難しいということはわかっています。
でも、お金を稼ぐためだけでなく、とにかく、もっと絵がうまくなりたいんです」

週末だけ学校に行くのではなく、もっとたくさん授業を受けて、
もっと絵を描きたい、もっとうまくなりたい
と思うようになり、退職を決意したのだそうです。

「両親に借りたお金は返せたし、貯金も少しはできたので、これで学校に行こうと思っています。
でもまた、別の仕事を探すつもりです。
今後の不安がないわけではないけど…」

そこには、以前のような、不安で仕方なかった奈保子さんはもういません。
不安はあるけど、自分の思うようにやっていこうと決めたのです。

絵の学校に通い、大好きな絵をたくさん描くことで、
徐々に自信を取り戻されたように感じました。

好きなことは、その人を支えるだけでなく、
未来をも変える可能性のあることを知りました。

※ご本人の了解をいただき、掲載させていただいています。
趣旨をゆがめない程度に、年齢や性別などの背景を変えたり、
他の患者さんを組み合わせるなどして、実際の症例に変更を加えています。
また、理解しやすいよう、内容を単純にし、処方内容も一部に限定していることをご了承ください。