イップスの背景に、低血糖と睡眠不足が関係していた症例です。
イップスとは、主にスポーツの場面で使われる言葉です。
それまで普通にできていた動作が、ある場面になると急に思い通りにできなくなる状態を指します。
たとえば、ゴルフのパット、野球の送球、テニスのサーブなどで、「頭ではわかっているのに、体が思うように動かない」ということが起こります。
この男性の場合は、それが「歌うとき」に起こっていました。
この記事の目次
イップスで悩んでいます
25歳の会社員の男性から、
「歌のイップスで悩んでいます」
というご相談がありました。
「普段の会話はまったく問題ありません。
でも、歌うときだけ、思ったような声が出なくなるんです」
特に、高めの音を出そうとすると症状が強くなるとのことでした。
声が出なくなるとは、どういうことなのか、詳しくお聞きしますと、
「声を出そうとすると、声がつまる感じがします。
声を出そうとする自分の意思が、体にうまく伝わっていないような感覚です。
その感覚がとても怖くて、ますます声が出せなくなります」
と表現されました。
男性はバンドでボーカルを担当しています。
歌うことがとても好きで、毎日のように歌の練習をしているそうです。
ところが、思うように声が出なくなり、歌うこと自体が怖くなっていました。
「今日も、声が出なかったらどうしよう。
もう歌えなくなってしまうのだろうか・・・」
これまでに内科、耳鼻科、音声外来など、いくつもの医療機関を受診されましたが、原因ははっきりせず、症状も改善しませんでした。
整体院、鍼灸院、その他さまざまな治療も受けてこられましたが、変化はありません。
詳しくお聞きしますと、歌だけではなく、野球でも同じような現象が起こっていることがわかりました。
仲間と野球をしているとき、送球の場面になると、急に腕が思うように動かなくなり、ボールを投げられなくなるとのことでした。
つまり、「歌のときだけ声が出ない」というだけではなく、送球もできなくなるなど、特定の場面で、体の動きが思い通りにコントロールできなくなる状態が起きていました。
深夜に歌の練習をするのは夜型だから
初診時、私がまず驚いたのは、男性の顔色でした。
20代とは思えないほど顔色が悪く、目の下のクマも目立っていました。
肌のつやもなく、とても疲れているように見えました。
いったいどのような生活をされているのか、生活状況をお聞きします。
男性は、19時頃に会社を退勤したあと、そのままカラオケに直行し、深夜まで歌い続けていました。
その後帰宅し、就寝は午前2〜3時頃。
朝は7時頃に起きて出勤していました。
さらに、入眠障害と中途覚醒もあるとのことでした。
これでは、睡眠時間が短いだけでなく、睡眠の質もかなり低下していると考えられます。
ところがご本人は、
「体調は全然問題ありません。元気です。
歌えないことだけが問題です」
と言われます。
食生活についてもお聞きします。
「朝は起きられないし、食欲もない」ので、朝食は食べません。
昼食はコンビニ弁当や丼物が中心です。
朝食を食べていないため、昼はお腹がすいていて、一気に大量に食べていました。
夕食は一般的な内容とのことですが、深夜にポテトチップスなどのお菓子を食べています。
飲酒や喫煙習慣はありません。
さらにお聞きすると、
「小学生の頃から、大人になった今でもずっと朝は起きられません。
自分は朝起きられない人間なんです。
完全な夜型なので、深夜に歌の練習をすることは問題ないと思っています」
と話されました。
ご本人にとっては、朝起きられないのは、子どもの頃から続いているため、「自分はそういう体質だ」と思い込んでおられました。
血液検査から見えたこと
血液検査では、以下のような結果がみられました。
AST 18、ALT 29、BUN 9、γ-GT 51、中性脂肪 321
中性脂肪が高値で、食事内容を合わせて考えると、糖質過多の傾向がうかがえます。
ということは、血糖値の乱高下が予想され、低血糖に陥りやすい背景があると考えられます。
中性脂肪高値に加えて、肝機能の軽度上昇もあることから、脂肪肝も疑われます。
20代男性で、BUNが一桁というのは、かなりの低値です。
高度のたんぱく質不足も問題だと感じます。
低血糖のとき体に起こっていること
低血糖状態が続くと、体はまず生命維持を優先します。
脳や心臓など、生命に直接関係する臓器が優先されるため、
命に直接関わらない高度な運動や、細かな運動制御は後回しになります。
歌を歌うという行為は、実はとても複雑な作業です。
声帯だけで声を出しているわけではなく、
呼吸筋、喉の筋肉、舌、口の周囲の筋肉から、姿勢を保つ筋肉まで、多くの筋肉を連携させて働いているのです。
特に高い声を出すときには、さらに精密なコントロールが必要です。
そのうえ、低血糖ではエネルギー不足になりますから、筋肉は動かしにくくなり、細かな協調運動はできなくなります。
その結果、発声に必要な筋肉の連携がうまくいかず、高い声が出しにくくなっていると考えました。
野球の送球も同様に考えることができます。
ボールを投げるという動作も、肩や腕だけでなく、体幹、下半身、タイミング、力加減などが関わる高度な協調運動です。
低血糖による影響でこれらの筋肉を動かしにくくなっていたと考えることができます。
「歌」と「野球の送球」は、一見まったく異なる動作に見えます。
しかし、どちらも呼吸、筋肉、姿勢、タイミングなどを繊細に調整する必要がある、高度な協調運動です。
この男性の場合、血糖値が乱れやすい食生活、たんぱく質をはじめとする栄養の不足、慢性的な睡眠不足が重なり、発声や送球に必要な身体の調整力が低下していた可能性があると考えました。
さらに、「またできなかったらどうしよう」という恐怖や緊張が加わり、症状が繰り返される悪循環に陥っていたのではないかと考えられました。
恐怖感が、さらに症状を悪化させる
慢性的に低血糖があると、体は血糖値を上げようとしてアドレナリンを分泌します。
アドレナリンは、血糖値を上げるためには必要なホルモンですが、同時に不安感、緊張感、恐怖感を強めます。
男性は、
「思うように体が動かないことがとても怖くて、さらに声が出なくなる」
と話されていました。
低血糖による身体機能の低下に、アドレナリンによる不安や恐怖感が重なることで、症状がさらに強くなっていた可能性もあります。
男性の場合は、これらの低血糖症状に、慢性的な睡眠不足も重なっています。
睡眠不足は、脳や神経、筋肉の回復を妨げ、集中力や身体の調整力を低下させます。
低血糖と睡眠不足が重なって、繊細な発声コントロールに影響したのではないかと考えられました。
低血糖、たんぱく質不足
まず取り組んだのは、食事と睡眠の改善です。
ご本人は催眠療法を希望して来院されましたが、まずは低血糖と睡眠不足の改善が必要だと考えました。
そこで、三食を規則正しく食べることをお勧めしました。
昼に丼物やカレーなどを一気に食べるのではなく、「ご飯、味噌汁、主菜、副菜」を組み合わせた定食スタイルにすること。
そして、深夜のお菓子を控えること。
こうした食事の整え方をお伝えしました。
また、睡眠習慣の改善も必要です。
睡眠の大切さを理解していただくために、睡眠中の成長ホルモンとコルチゾールの分泌について説明しました。
入眠後、最初の深いノンレム睡眠時に成長ホルモンが分泌されます。
成長ホルモンは、体の修復や回復に関わります。
成長ホルモンがしっかり分泌されるためには、深く眠ることが必要です。
そして、深く眠るためには、夜間にコルチゾールが下がっている必要があります。
ところが、深夜まで歌い続けると、心身は興奮してしまいます。
歌うことは楽しいことですが、体にとっては活動性の高い行為です。
深夜の歌唱によって交感神経が高まり、コルチゾールの分泌が促されると、入眠しにくくなり、眠りも浅くなります。
その結果、体の修復や回復も妨げられてしまうのです。
そのため、寝る前には歌唱のような心身を興奮させる行為は避けること。
夜は照明を落とし、就寝時刻はできるだけ22時〜24時頃に近づけることをお伝えしました。
この説明を聞かれた男性は、
「一日でも早く治って、また歌いたいので、
今日から12時に寝て、三食食べます」
と決意されました。
眠れるようになった
3週間後に来院されると、初診時に目立っていた目の下のクマはほぼ消えて、肌につやが出て、表情も明るくなっていました。
私は驚いて、「睡眠や食事はどうされましたか?」とお聞きしました。
すると、
「12時に寝るようにしました。
三食食べています。
食事は、母親に来てもらって作ってもらいました。
そしたら、眠れるようになりました。
中途覚醒もなくなりました。
声のほうはまだ大きく変わっていませんが、よくなりそうな感じがあるので、このまま続けようと思います」
と言われます。
声そのものは大きく変化はしていませんでしたが、体の状態は明らかに変わり始めていました。
3か月後には、
「声がいつも通りに出ることが多くなりました。
食事を適当にしたり、食べなかったりすると、眠れなくなるし、声も出にくくなるので、食事が関係していると感じています」
と話されます。
歌のイップスと思われていた症状の背景には、「低血糖、たんぱく質不足、睡眠不足」による身体機能の低下が関係していたと考えられます。
「ある場面になると体が思うように動かない」
「声が出ない」
「怖くなって(不安になって)さらにできなくなる」
という困った症状の背景には、血糖値の乱れや栄養不足が隠れていることがあります。
この方の場合、食事と睡眠を整えることで体調が回復し、少しずつ声にも変化がみられるようになりました。
体は、毎日の食事と睡眠に支えられています。
必要な検査を受けても原因がわからず、さまざまな治療を受けても改善しないときには、毎日の食事や睡眠を含め、体全体の状態を見直すことが改善の糸口になることがあります。
当院では、症状だけを見るのではなく、食事、睡眠、生活習慣、血液検査などから、その方の症状が起きている背景を一緒に考えていきます。
※症例は個人が特定されないよう、一部内容を変更しています。
※治療効果には個人差があります。
院長 野口 由美
医学博士(大阪大学)/放射線診断専門医/抗加齢医学会専門医
関西医科大学卒 関西医科大学内科、大阪大学放射線科、九州大学心療内科
日本メディカルホメオパシー学会認定医
大阪大学で医学博士を取得。
内科・心療内科・放射線科での臨床経験を重ねた後、クリニック千里の森を開設。
西洋医学に加え、分子整合栄養医学や伝統医学、補完代替医療を取り入れ、一人ひとりに最適な治療を行っている。
※ご本人の了解をいただき、掲載させていただいています。
趣旨をゆがめない程度に、年齢や性別などの背景を変えたり、
他の患者さんを組み合わせるなどして、実際の症例に変更を加えています。
また、理解しやすいよう、内容を単純にし、処方内容も一部に限定していることをご了承ください。
